年上に敬語を使わなければならない理由は合理的に説明できない
年上に敬語を使うべきだという考えが一般にある
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でもよく考えると何で?
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合理的な理由はない
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儒教的価値観から来ている
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宗教は元々非合理的。年上敬語も非合理的なのだ。
こんにちは、キング・ブログ・スライムです。
最近は世の中にあるあらゆることを、ゼロベースから考え直し、合理的に考えることにハマっています。
ちょっとよく分からない趣味(?)ですね(笑)
世の中で信じられている通念は、よくよく考えてみると実はそのほとんどが非合理的だ、的な内容を以前ホリエモンが著書で語っていたのを覚えています。
例えば朝はみそ汁と魚、ご飯が定番の組み合わせだけど、別にそれに理由はない。食べたいならかつ丼でもいいのではないか、など。
さて、私達は幼稚園や保育所に入ってから大学に至る学校教育、そして会社に入って社会人として働くまでずっと年上を敬うべきだと教えられてきました。
中学校高校の部活では、一つ学年が違えば、先輩には敬語を使わねばなりません。
会社でも浪人で入って一つ上の社員が年齢的に同期だったとしても、年次が上ということでクソ丁寧な敬語を使わねばなりません。
年上には敬語、年次が上の人にも敬語(電通で「年次は海よりも深い」と言われていることをふと思い出しました)、オジサンやおばさんには敬語、、、という考え方がごく当たり前でしたが、最近はどうしてなのか考えるようになりました。
なぜ、とってもエラそうに振舞っているオジサンにこちらが敬語を使い、あちらがため口何だろう?
人一人そのものに価値の差はないはずなのに、どうして私たち若者が年上にこびへつらわねばならないのだろう?
良く考え直してみると、意味不明。
例えばその人に素晴らしい能力があったり、他の人が誰もできないような経験をしていたりする年上の人は、確かに人としての価値というか、存在感はあると思います。
でも、長く生きていることとその人に価値があるかどうかは全く別で、長く生きているけどポンコツだっています。
逆に生きている期間は短いけど有能な人はいます。
年上に敬語を使うべきという考えを肯定する意見もあります。
例えば、年上に敬語を使うという考え方を社会全体で共有した方が社会が安定し円滑に動く、という考え。
でもよく分かりませんね。正直。
今回はこんな内容
年上に敬語を使うべき合理的な理由はない
ここ数日間、家や会社のちょっとした暇な時間に自分の頭の中で議論してみましたが、やっぱり合理的理由は考え付きませんでした
だって長く生きているということと、その人に経緯が払われるべきだということは関係性のないものだからです。
端的にいえば、年上に敬語を使うべきという考え方は非合理的ということ。
目の前に腰が悪いおじいさんがいたなら、私は席を譲ります。それは物理的に体が衰えていて、周囲の配慮が必要だからです。
でも、おじいさんの地位が上でこちらの地位が下であるはずはありません。
一緒です。
さて、そもそも年上を敬うべきだという考えは中国で生まれた儒教から由来しています。
宗教は非合理的
ただ宗教というものはもともとが非合理的です。
例えば仏壇は誰もが神聖なものとして扱いますが、よく考えたらただの木製の置物だと考えることもできます。
毎日メッカの方に向かってお祈りしなくても、たぶん何も悪いことは起きません。
私が言いたいのは宗教はそもそも論として非合理性の塊で、儒教もその一つであるということ。
年上を敬い、年上に敬語を使うということはどう考えても非合理です。
でもその非合理は宗教としてはごく当たり前で、そもそも宗教は非合理的な営みだからです。
また、宗教では一度決まったことは絶対そうだと考えられる傾向にあります。
俗にいう原理主義に近い考え方です。
一番厄介なのはそうだと思い込むと考えを変えられないこういうタイプの人ですね。
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