【続編】自殺がダメな理由を再度整理し、頂いたコメントへの感想を書いてみる
こんにちは、キング・ブログ・スライムです。
自殺がダメな理由について論じた前回の記事を書いてから、2年以上が経ちました。
私自身、そんなに考えず、当時思っていたことをまとめただけでしたが、次第に多くの人に読まれるようになり、コメントも多数貰いました。
特に”自殺”のようなセンシティブな話題は、人によって意見が様々です。
育ってきた環境や年齢、性別も違う人が自殺についてどのように考えているのか、率直な意見を知れたのは勉強になりました。
因みに、一部のコメントに”どのように論破するか?”というニュアンスのコメントがありましたが、それぞれの意見があっていいと思います。
ただ少し思ったのは、文章が少し冗長で分かりにくいところもあったのか、私の主張が伝わっていない場合があったことです。
ということで、私自身の意見を再度まとめて、その後、貰ったコメントや意見を考えていこうと思います。
今回はこんな内容
(個人の自由という視点に立てば)そもそも自殺がダメな理由はない
何度も繰り返しになりますが、社会ではなく人一人の個人という視点に立てば、自殺がダメである理由はない(説明できない)と思います。
朝起きてから風呂に入るのか、昼飯はどのお店で食べるのか、夜はテレビを見るのかネットを見るのか、といった日々の生活をどうするのかは当然、個人の選択の自由です。
そしてより大きな視点でいえば、どのような学校に行って、どのような人と結婚し、どのようなタイミングで子供を産み、どのような場所に住んで…つまり、どのような人生を送るかは個人の自由です。
これは自明の理。誰もが認めるところだと思います。
もっと要約して表現すれば、どのように生きるのかはその人の自由と言い換えることができます。
そして……
どのように生きるかは自由⇒どのタイミングで死を選ぶかは自由
と考えることができ、私は(個人という視点に立てば)自殺はその人の自由だと思うのです。
もちろん他者(家族や友人の存在など)との関係の中で、制約されると感じる場面も多くあると思います。
ただ、原理原則論でいえば、自己の生命をどう扱うかはその人が決定権を持っているのです。
(社会・為政者側に立てば)自殺はダメ
逆に個人という視点ではなく、社会を運営する側(つまり為政者側)として考えると、自殺は可能な限り避けねばなりません。
それは自殺=社会を運営する歯車の損失であり、これまで継続して行ってきた全投資の損失を意味します。
会社で例えれば分かりやすいかもしれません。
基本的に会社は社員(労働者)に辞めてほしくありません。それは仕事に穴が開いて円滑に業務が進まなくなったり、新たなビジネスを生む装置が失われることを意味するからです。
社会や国家という視点においても、会社と同じことが成り立ちます。
だから社会や国家は無意識のうちに「自殺はいけないこと」という考えを国民に浸透させ、自死の防止を図ります。
前回の記事で書いた自殺がダメな理由は、まさにこの部分です。自殺がどうしてダメかといえば、社会にとって損失になるから。
一言でまとめればそれだけ。
”カネと労力をかけてきたのに死なれたら困る”と感じるのは社会や国家といった為政者側の意見で、個人は関係ないのです。
価値を生み出せなかった=生きる価値がない、ではない
そういう意図ではないと判りつつも、ああ、期待以上の結果を出せなかった私に生きる価値はないのかなあ、と、読んでいて思いました。
個人は社会の一部ですが、社会と個人は切り離されるべきだと思います。
社会の期待を満たす為に投資という形で責任を押し付けられているのだとしたら、命ってなんだろうな、と思いました。
では。
引用:「匿名」さん
⇒”そういう意図ではない”と分かりつつ、「期待以上の結果を出せなかった私に生きる価値はないのかなあ」という部分に焦点を絞って考えたいと思います。
そもそも”価値”の判断基準は人によって違います。
生み出した資産の総額なのか、幸せにした人の数なのか、産んだ子供の数なのか、解決した問題の数なのか、何をもって”価値”があると判断するのか定かではありません。
また、日本という国に生を受けたあなたが意識もないうちに、”勝手に”投資をしてきたのは国家です。
仮に自身が投資に見合った価値を生めていないと感じていたとしても、悪く思う必要はありません。
投資を判断したのは国であって、その人個人ではなく、投資に対する責任を負う必要はないからです。
子供から問われれば、「子供が死んだら私たちが悲しいから」と答えます
こんにちは。
経済から見た「自殺してはいけない理由」として、納得しながら読ませていただきました。今回のような視点から見た「自殺してはいけない理由」については同じ考えを持っていましたが、実際の数字に近い情報も含まれており、大変理由しやすかったです。ありがとうございました。
現在、子ども達(あるいは若者)からそのような質問があった場合、どのような答えが正解なのかを探しており、いくつかの記事(「記事」となってしまうのは、筆者様の考え方が大方だからでしょう)を読み漁っています。
その中で、私がなりの「自分の人生において自殺してはいけない理由」を考えて見ましたので、是非ご意見を聞かせていただければと思います。結論から述べますと、「自身を守るため」ではないかと考えました。
自殺を選択する理由の主なものとして
・自分が死ねば周りに迷惑がかからないから
・死んだ方がマシだから
の2つと考えます。
前者に関しては、今回の記事の内容や、「生きている迷惑より死んだ悲しみの方がずっと大きい」が答えになるかと考えます(上の結論は次に対する答えですね。失礼しました)。
問題は後者の「死んだ方がマシだから」という理由の答え。
「自分の人生なのだから、死んで楽になったって自分勝手じゃないか」と考えた場合の自殺理由かと思います。
本当に「死んだら楽」なのか?と考えました。
宗教的な「死後の世界」があるとするならば、多くは「自殺は大罪」とされるため、「死んだ方が苦しみは続く」と考えられます。この観点で言えば、「死んだら楽」ではないと思います。
では死後の世界が無い場合。
死んだらどうなるのでしょう。
わかりません。
真っ暗でもない(重要です)、無音でもない、想像もできない、想像する部分(もちろん脳)がないから想像できるはずもない。
「死んだら楽(マシ)」と言うからには「死後」を想像して選んでいるはずです。本当に想像できているのでしょうか。
おそらくできていない、あるいはしていないと思われます。
それでも「死」を選ぶのは、なんやかんやで「死後がある」と考えてしまっているからと、私は思います(特に「真っ暗になる」が多いのではないでしょうか)。
どのように考えていたとしても、「死んだ方がマシ」がそもそも間違っていると考えました(どういった観点からしても)。
それでも「死」をマシと考えて自殺してしまうのはなぜか。そもそもなぜ自殺を選ぼうと思ったのか。
それは 生きていることが辛いからだと思います。その辛いことから、自分を守るためだと思います。
これ以上辛い思いをしたくないから、辛い現状から自分を守りたいから、死を楽と考えて自殺しているのではないかと考えました。
しかし、自分を守るために自殺をするとどうなるか。
地獄に堕ちて苦しみを受け続ける、想像も出来ないような状態に放り込まれる(ここが未完成ですね)。
自分を守るはずが、より苦しめる結果になると思います。
これが上述した「自分の人生において自殺してはいけない理由」の結論、「自分を守るため」になります。
ここからは派生ですが、では自分を守るために、自殺をせずにどうすれば良いかを考えました。
私は選択肢を増やせば良いと考えます。
・死ぬ
・生きる
ではなく、
・死ぬ
・いまのまま頑張って生きる
・環境を変えて生きる
・一時的に誰かに助けて貰って生きる
などなど(言うは易しですが)。
その中で「自分を守るため」の選択をすれば良いかと考えます。周りのサポートが必須とは思いますが。長くなりましたが、以上が私の考える「自分の人生において自殺してはいけない理由」です。
拙い文章、考察で大変申し訳ありませんが、さらに発展できるよう、是非ご意見をいただければと思います。
長文失礼いたしました。
引用:「通りすがり」さん
仮に私が子供から「どうして自殺はいけないの?」と問われた場合、「国や社会にとっては財産の損失になるからやめてって言っているんだよ」と教えると思います。
ただ、「個人の自由という観点に立てば、自殺をしてはいけない理由を考えるのは難しい」と答えるでしょう。
ただし、「自分が死ぬのはダメ?」と聞かれたら、「○○(子供の名前)みんなが死んだら悲しむし、死んでほしくないから」と答えます。
理想的な答えが返せないですが、これ以上の回答が浮かびません。
ただし生きていることによる苦痛と、死ぬことでその苦痛から逃れられる利益を天秤にかけたとき、自殺という選択肢を選ぶことには一定の合理性があると思います。
最近、オーストラリアの高齢の科学者がスイスに渡って自死(自殺)を選んだというニュースが話題になりました。
本人の年齢や老衰による機能の低下、自信の喪失などを考えると、自分で最期を選ぶ彼の方法には、一定の合理性があったと思われます。
「生存教」は社会や国家が創った
それだとリターンが無い障害者は自殺しても良いということになります。でも現状そうはなっていません。自殺が悪いとされる本当の理由は、無自覚ながら私たちが「生存教」という宗教に入っているからでしょう。
引用:「あ」さん
障害者であることとリターンが生めるかどうかの両者には、強い相関があるわけではありません。
そもそも何をもって”普通””健常”とするのか難しいところです。
また、我々が無自覚ながら「生存教」に入っている点は同意です。ほとんどの人が無意識的に死ぬのはいけないことだと思い込んでいます。
ただ、その生存教を無意識のうちに刷り込んでいるのは、社会や国家の側なのです。
それはこれまでのご自身の受けていきた幼児教育や学校教育、政府広報などを思い浮かべれば自明だと思います。
よく考えると、社会による刷り込みであっても、自殺を踏みとどまらせる装置になりえるのかも
これまで述べてきた通り、「自殺はいけないことだ」と人々に思い込ませることは、明らかに社会や国家側がいとして行っていることであり、否定的なニュアンスで捉えてきました。
ただ、子供の頃からずっとその価値観のもとで育ってきて、自殺をしてはいけないことが当然だと無意識的に思えていた場合、人生で何度か訪れるであろう深刻な事態で、そのときの拍子でたまたま自殺をしてしまうことを防止するストッパーになりえると思います。
家族のこと、将来のこと、お金のこと、で本当に悩んだり絶望したときであっても、「ああ死ねばいいんだ」という発想が浮かびにくくなるのではないでしょうか?
人生において恐らくつらいシーンは何度かあると思いますが、本当に死を選ぶしかないシーンはほとんんどない気がします。
「死ぬことはいけない」という考えが刷り込みであっても、そこで思いとどまらせることに一役買っている点では意味があるのかもしれません。
以上です。
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最早コメントを読まれていないのでしょう
社会的(国家など)に考えると
今まで生きてきた命(=金=投資)が無駄になるから自殺は駄目
家族などから考えると、場合によりけりでしょうが上記の理由も「ゼロでは無い」
当然、身内ならではの感情論が大きいでしょう
一方、自殺を考えるに至る「対象」へ「攻撃」すべきだと考える人も居ますが…
ただ、平たく言えば「自殺を考える個人が、それまでに『投資された』ものが今も、これからもどうでも良くなった場合は仕方ない」
という事かと思います
モラル、倫理…そんなものがどうでも良いと考える連中は自殺しません
そういう立場に追い込まれる事もありません
人間という生物として「現時点で淘汰されるべき個体だから」、自殺するのです
日本に限らず、世界に目を向けて見ると至る所で自殺すら許されず虐殺されています
そして、それを世界的に「本気で大々的に」止めてはいません
人間含めた命への答えなんて、そんなものですよ
通りすがり者です。論点は変わりますが、私は自殺肯定派です。なのでそもそも「自殺をしたらダメなのは何故?」という問いに対しても「ダメじゃないし、別にいいんじゃない?」と返すと思います。なんなら自殺を肯定することで楽に生きられる、なんてこともあると考えています。それに特に根拠もなく「自殺はダメ!」とか自殺否定論が蔓延する世の中って生き辛くないですか?(笑)家族ならともかく、他人に言われても大きなお世話で何も響かないですしね。
もっと気楽に「最悪死ねばいいや」くらいの価値観が認められる、「自殺も肯定できる」ような懐のでかい世の中になればいいな〜と思います。
素晴らしい記事で心から納得できた気がします。
一般的に自殺はイケナイとされますが、個人の勝手の範疇に
なぜ第三者が介入するのかずっと考えていました。
別に自殺したいわけではありませんが、生きる権利があるなら
死ぬ権利はなぜないのか疑問だったのです。
宗教的な『騙し』なんぞにまったく興味がなく
(死後なぞ誰にとっても不可知ですから)、
合理的な説明と自分自身の心の納得をネット上に捜していたのです。
一番得心できたのは「社会の損失」ですかね。
赤子時代から税金を投入され、将来の納税者として社会が育て上げた者を、
勝手に死なれちゃ大損だからですよね。
つまり自殺は大きなエゴイズム的行動なわけで、
自分だけで育ったわけでもないのに、社会に対し、
いろんな意味で大した貢献もなしに死んでどうする!
ということなのでしょう。
(もちろん障害者や病人は除外です。)
ですが、高齢になってなんら社会貢献もできなくなり、
病身で介護も必要になった老人ならどうだろうか。
医療費や年金に多額の税が使われ、
逆に生きてることが社会の損失になりえなくはないだろうか。
老境に入り、自由もきかなくなったら自殺する権利があってもいいような。
もちろん医療や介護の充実で、長生きしたくばそれも自由ですが、
なんですか、一定年齢に達したら、自由意思で
安楽死が希望できる制度を日本でも導入してくれないかなあと思っています。
若いうちの自殺はエゴだけど、老人の自死決定には個人の権利を尊重するとか。
最近日本人女性で難病からスイスで安楽死した人のことを知りましたが、
彼女の場合は‘それでも自殺’扱いで、‘自殺はイケナイこと’になるのかなあ。
解釈は千差万別だと思いますが。
人の生死の問題は難しいですね。
いずれにしても、最終判断や解釈は、自らの心に問い、委ねられる事柄になるのでしょう。
数年前に目にしたフレーズ “早く死ねるといいね” で死生観がガンガン揺らされた。
自殺よくないの一辺倒では癒さない傷があるし、死にたい奴の脳みそには届かないって思った。
死にたいていう結論だけにこだわってちゃバカで、傷の問題だよな。
でも確かに、自分の大切な人には、死んでほしくないって伝えるね。共感共感。
自殺はお金の価値でも国家の損得でも近親者の悲しみでもありません。
心が死んでしまったから肉体が滅ぶのです。死とは必ず肉体的理由で死ぬわけではありません。
死者におかしな理屈を付けないで下さい。凄く悲しいことですが、必死で頑張ってそれでも行きつづけられなかったんです。私は必死で生きて死んでいった彼が誇りです。
初めまして。
もしお気持ちを傷つけてしまったとしたら、申し訳ありません。
記事の内容はあくまで個人の意見です。
また、当記事は自殺を肯定しているわけではありません。
肉体が限界に達して生命が維持できなくなる死もあれば、精神が先に持たなくなる死もあると思います。大半の事例は前者なのですが、安楽死した学者の方や何らかの苦悩で自殺を選ばざるを得なかった方は、ひょっとすると後者なのかもしれません。
『自殺をしてはいけない理由』をずっと考えてますが、未だに納得する答えが浮かばないですね。
私自身、自殺願望があるので合理的な理由をもって自分を説得したいと思ってますが、残念です。
個人的には自殺を肯定するのが一番良いと思いますね。
それで安楽死を合法化させて、死にたい人は死ぬ・生きたい人は生きる。
これからAIが進化して人間の労働がいらなくなった時、私たちは死を選ぶ権利を得れることを期待してます。
それによって、ようやく”生という牢獄”から解放されるのかなと考えました。
初めまして。
自殺をしてはいけない理由は合理的に考えるほど説明がつかないと思います。
私がこの記事を書いたのは、実は、自殺を擁護するためではありません。一般に自殺がダメだとされるのは、「周囲が悲しむから」「明日生きるのに困っている人もいるのに贅沢だ」といった他人視点の指摘がされますが、どれも本質的な理由にはなりえません。
自分の命をどのように扱うかは、その人にあるべきだと考えるからです(自己決定権)。
ただ、自殺がだめだといえる理由はないと考え、自分の生についてゼロベースで考える方が、自分にとって本当に自殺がダメな理由(どうして今生きているのか)が見つかりやすいのではないでしょうか。