自殺がダメな2つの根本的理由―カネと労力をかけてきたのに死なれたら困る
こんにちは。
キング・ブログ・スライムです。
今回は「自殺がなぜダメなのか?」について私が考える本質的な理由を挙げたいと思います。
まず自殺の可否についてですが、個人の自由という観点から見ると、自殺を止める理由などありません。死のうが死ぬまいが本人の勝手だからです。
ではなぜ「自殺はダメ」なのでしょうか?
それは個人の自由ではなく、「お前が死んだら私達が困るから」という自分勝手な理由があるからです。
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今回はこんな内容
多くの人がぶつかる疑問
よく「自殺をしたらいけない」といわれますが、実際なぜなのか考えたことがない人も多いのではないでしょうか。
私は小さい頃からなぜ自殺はダメなのか、疑問に思っていました。
自分が給食で好きなものを食べるのも自由、好きな時間にゲームするのも自由(親が許さないが)、仲良くしたい人と友達になるのも自由、ならば自ら命を絶つのも自由ではないか?と。
勿論、私は自殺を肯定するつもりは全くありませんし、自殺しようという気も全くありません。
ただ、自由に生きる権利が憲法で認められるなら、自由に死ぬ権利も認められるのではないかと思ってしまいます。
日本の法律・憲法では、自殺の権利は明記されていませんし、明確な罰則規定があるわけではありません。第一、自殺した人を罰則するのは無意味です。
できるとすれば、エンマ大王様にお願して、自殺者は地獄に落とすような制度をつくってもらうしか、自殺抑制策はないでしょう(笑)。
理由① 一人前になるまでに費やした社会的コストがすべて無駄になるから
こんな風に書いてしまうと身も蓋もありませんが、まず一つ目の理由として挙げられることです。
一人の人間が一人前の大人になるまでに、政府や自治体が費やす税金はいくらであるかご存知ですか?
小学校から中学校までの義務教育9年間で、1人の生徒あたりに費やされる税金は約9,363,000円。、、、ゼロが多すぎて分かりにくいので単位を万円にすると、約936,3万円です。
高校生は、1人当たり約107,4万円×3年=322,2万円ですです。
つまり、小学校入学から高校卒業までに合計約1250万円!の税金が、たった1人の生徒に費やされるということになります。
(参考サイト:6年生社会科学習資料 税金のはなし 平成26年度版―東京都租税教育推進協議会)
上のデータは学校の設備費や教科書代、先生の人件費などを含んだ教育費しか考慮に入れていません。
実際には上述した教育費に加えて、幼稚園・保育園に通うための費用や、けがをした時の社会保険費など多額の税金がぶち込まれているわけです。
そして大学に行けば、文科省から莫大な額の補助金が提供されます。
正確なデータは出せませんが、生まれた時から大学を卒業するまでに、最低でも総額2000万以上の税金が一人の人間に投入されているのは確実でしょう。
2000万円以上のお金ですが、これはすべて税金だけです。
実際は更にこの費用に加えて、ベビーカーから勉強道具、日々の食事代まで生活の様々な面において親が私費を出していますし、入学祝やお年玉などの親戚や祖父母から貰うお金もあります。
総額でいくらになるのでしょうか?
膨大な金額すぎて見当がつきません。
なぜ社会は私たちにこれだけ巨額の投資してくれるのかというと、社会に出てからその金額以上の活躍をしてくれるであろうと期待しているからです。
例えて言うなら、農家の方が春先になるとまだ水を引いていない水田に肥料をすきこみ、一生懸命に手をかけて田植えをし、台風が来たときは朝早くから水田に見回りに行き、秋になると収穫祭を行って実りを祝うのは、育てているお米にそれ以上の価値があるからです。
社会もそれと同じで、子供を必死になって育てるのは、労力以上の見返りがあると期待しているからでしょう。
途中で死んでしまっては、費やした社会的費用がすべて「損」になってしまいます。
若者の死が最も「損」
非常に唯物的な考えになりますが、税金や労力の投資という観点から考えると、社会として一番の損失は「若者の自殺」です。
せっかく20年以上に渡って投資してきて、やっとこれから社会に貢献できる時期に入るのに、その直前で死なれては完全な「損」です。
ちょうど、これから収穫だという夏の終わりになってやってきた台風に、水田が根こそぎやられるという状況と同じです。農家のおじいちゃんからすればたまったものではないでしょう。精魂を込めて育ててきた息子ですから。
もちろん、高齢者の死も社会からすれば損失ですが、投資以上の貢献はしているとも考えられます。
仮に自ら命を絶つという選択をしてしまったとしても、投資と利益の差し引きから見れば「損」ではありません。
人の命の重みに差はないというのは前提ですが、税金や労力の投資という観点から考えると、高齢者の死よりも若者の死の方が社会的損失が大きいでしょう。
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理由② 自殺が当たり前の社会になると、自殺する人が増えて社会が成り立たなくなる
この理由も何んとも味気がないですが、かみ砕いて分かりやすく考えてみましょう。
ちょっと人間関係が辛くなった時にエスケープする手段として自殺が使われるようになったとしましょう。
会社が辛くなって精神科や心療内科に行くのと同じような、手軽で簡単な手段の一つになったとします。
そのような自殺を肯定する社会では、自殺する人も増えるでしょう。
「辛かったら自殺するのもいいことだよ」
「死んでも自己の精神は不滅である」
「新しく生まれ変わることは社会にとっていいことだ」
など、、様々な言説・宗教的思想が広まるようになり、エスケープ手段としての自殺が当たり前になるかもしれません。
例えばそんな社会では、大人になった現在、小学校の知り合いが4分の3しか残っていないなどという壊滅的状況が生まれるでしょう。
困るのは残された私達です。
例えが良くないですが、「沿線の鉄道会社の社員数名が今日亡くなったので、午前中は運休になります(普通の声で)」のようなあり得ない駅内放送が当たり前になるわけです。
バイトを辞めるのと同じような気軽さで沢山の人間にドロップアウトされては、社会が回らなくなります。
そのため、社会を維持・管理する側としては、自殺を徹底的に否定しなければないりません。本人の無意識レベルにまで刷り込んで、困った時であっても「自殺」をいう選択肢を思い浮かばせないようにします。
ちょうど麻薬を使ったことのない我々が、どれだけ疲れ果てていても「麻薬はダメ、ゼッタイ。」と思い込んで、麻薬を使わないように。
実際に自殺を肯定する社会もあります。
それは、今話題のイスラム国を中心とする過激派組織で、ISILのために死ぬことは社会への貢献だと教えます。
つまり、「十字軍(欧米諸国のこと)をやっつけるための自爆テロはいいことだ」と洗脳するわけです。
洗脳された人は「イスラム国のために自ら命を絶つことは、役に立つことなんだ」と思い込んでしまい、自爆テロをすることさえ厭わなくなります。
イスラム国の事例からわかるように、社会全体に自殺を肯定する考え方があっては、自殺者が増えてしまう可能性が高いです。
実際、日本は欧米などの諸外国と比べて自殺率が異常に高いです。日本独自の閉鎖的な社会など様々な理由があるかもしれませんが、理由の一つとして挙げられるとすれば、切腹に代表される自害を是とする文化でした。
ミスをしたら責任を取って自ら命を絶つ、このようなことがいまだに日本社会には残っています。(個人的にはこの自殺文化には大きな疑問を感じていますが)
一方、欧米社会はキリスト教の影響が強いです。宗派や個人の考え方にもよりますが、キリスト教は自殺を「罪」として完全に否定していますから、欧米社会では自殺は認められていません。
辛いことがあっても、小さい頃からキリスト教の自殺を否定する思想が刷り込まれていて、自ら命を絶つことはキリストの教えに反するわけですから、そう簡単に自ら命を絶つことはできません。
私たちが「ダメ、ゼッタイ」と教え込まれていて麻薬を使おうとすら思わないのと一緒です。
仮にクリスチャンで自殺する人がいるとすれば、よほどの事情があったのかもしれないと推測するのが一般的です。
ただの余談ですが、個人的に感じる宗教の最もいいところは、人間関係を良くしたり社会を維持するための考え方を自然な形で人々に共有できることかと思います。-貧しい人には与えよとか、自殺は「罪」だとか、嘘はだめだとか、、、
結論
個人の自由という観点から考えると、自殺をしてはいけない理由はないと思います。
ダメでと言われる理由は、自殺者以外の人からみた場合です。
その理由をあぶりだしてみると、身も蓋もないような以下の理由が浮かび上がってきます。
「死んだらお金と労力が無駄になるから」
「死んだら私たちが困るから」
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まぁ、しょせんこんなもんです。親はどんな形であれ親のために子供を子供を利用するために産んでますし、社会もそれを利用する。利用できるうちは存在させたいから、自殺を否定する、それだけです。あたかも本人のためを思って自殺するな、なんて言わないでほしいですねw 事実を子供たちに伝えて、子供たちがこんな社会を滅ぼすという選択肢をとって行動することが本来の正義じゃないでしょうか?そんな社会を受け入れるという判断をするかもしれないですが、次世代に殺されても文句を言っちゃいけないですね。自業自得です。自分は決して子供を巻き込みたくないし、自分が巻き込まれたくないのでさっさと死にますがw
自殺志願者がそこで踏みとどまり、投資された金額以上に社会に貢献する確率は果たして何%でしょうか? よく考えてください「自殺をするような人」です。
そんな「自殺をするような人」は秋葉原で無差別殺人を起こすかもしれないし、新幹線でなたを振り回すかもしれません。そんなゴミは早めに死んだほうがいいと思いませんか?
多分長生きすればするほど、無駄な社会保障は続きます。
であれば、投資される金額以上の価値が自分にないと判断すれば、早々に人生を切り上げた方が良さそうじゃありません?
自殺は若ければ若いほど、社会へのダメージは少ないですよね。ゴミ人生のルートはそうそう変わりませんからね!
あと、社会が回らなくなる。については「自殺をしない人」は少なからず有能な人種です。
その人種同士で交配する→有能な血を持った子供が生まれる
のように「自殺をするような人」が淘汰されれば、おそらく社会はいい方向に向かうでしょう。あとはこの社会でもっと不倫・一夫多妻が進めばいいだけですね。
自殺をするような人間はゴミです。あなたのような有能な人材ではない。若いうちに死ねば、関わる人も少なく被害も少ないでしょう。
この理論は「自殺をするような人」を他の人とおなじという前提に基づいてますが、決してそんなことはありません。投資以上の見返りは期待できないし、犯罪者になる可能性があるウジ虫です。(笑)
知恵遅れは喋んな
クソすぎる理論
それだとリターンが無い障害者は自殺しても良いということになります。でも現状そうはなっていません。自殺が悪いとされる本当の理由は、無自覚ながら私たちが「生存教」という宗教に入っているからでしょう。
自殺は殺人であるという事にして罰を与えるのって本当に意味がない事ですかね。自殺をする人が少しでも、自分が死んだらどうなるかなどについて考えるかもしれません。例えば、「自分が死んだら子供は親の殺人者持つということになるのでは?」って考えるかもですし……。他にももし、死にきれなければその人は殺人未遂ということににもなります。
そういう意図ではないと判りつつも、ああ、期待以上の結果を出せなかった私に生きる価値はないのかなあ、と、読んでいて思いました。
個人は社会の一部ですが、社会と個人は切り離されるべきだと思います。
社会の期待を満たす為に投資という形で責任を押し付けられているのだとしたら、命ってなんだろうな、と思いました。
では。
コメントありがとうございます。
社会は投資に対するリターンを求めますが、個人はその期待に応える必要は必ずしもありません。
別にあなたが投資を求めたわけではなく、社会が勝手に融資を押し付けてきたわけですので。
自由に生きればいいと思います。
あなたがあげた理由は二つとも賛成しかねます。
一つ目の理由が、人にかけたコストが無駄になるということですが、政府が人一人にかけた税金は結果的に税収増やす要因になります。また、人に対する投資によって消費額が増えると、それは誰かの所得となりますので結果GDPを増やす要因となります。マクロ経済的にいうと、乗数効果、GDP三面等価の原則が2つの理由への反論の論拠となります。
二つ目の理由については、主張、根拠がとっちらかっていて、理解に苦しみます。自殺者の増加が為政者にとって不都合だとおっしゃっております。しかし、民主主義、共産主義どちらかに世界を分類した場合、民主主義というものには為政者とは存在せず、共産主義の場合は反乱のタネをどう抑えるべきかということに関心がある風に思えます。また、自殺を容認すべき、もしくは禁止すべき思想の紹介において、イスラム国、キリスト教をあげていますが、二つの例は、概念の階層が異なるように思えます。イスラム国はより具体的な事例のように思えてならないです。自殺をする際どちらの思想を容認するかは個人に委ねられているというふうに受け取ってよろしいのでしょうか?
経済的、思想的にも、思想の自由が認められているのであれば、自殺しようがしまいが個人の自由のように思えます。
コメントありがとうございます。
”人にかけたコストが無駄になるということですが、政府が人一人にかけた税金は結果的に税収増やす要因になります…”
⇒乗数効果以前に、これから富を生み出すはずの人間が死んだら、それは単純に経済的損失だと思います。
例えば、大規模な投資を行って鉄道を引いたけど開通直前に雨で流されたなど、具体的に考えれば、損失具合が分かるでしょう。
”主張、根拠がとっちらかっていて、理解に苦しみます。”
⇒すみません、私の文章力不足です。
”民主主義というものには為政者とは存在せず”
⇒民主国家であっても為政者は存在します。そもそも為政者が存在しなければ、国は回りません。
”経済的、思想的にも、思想の自由が認められているのであれば、自殺しようがしまいが個人の自由のように思えます。”
⇒冒頭にも書いている通り、私も同じ意見です。
じっくりと文章を読んで、意見を書いて頂きありがとうございます。
意見の違いはさておき、読者の方の参考にはなったと思います。
自殺が当たり前になったら社会が破綻するとは限らないです
スイスの自殺幇助制度が良い例です
これは障害者にとっては救いなんですよね
日本が安楽死制度を設けたら
ストレス社会と言う肩書きなくなりますね
自殺がダメな理由に経済的な理由を挙げていますが、それなら『投資した金額以上を貢献できれば自殺しても良い』という理屈になりません?
もし、私が自殺志願者だったら『投資金額以上に社会貢献したから心置きなく死ねるな♪』と言うと思います。
もし、そう言われたら主さんはどう論破されますかね?
コメントありがとうございます。
自殺の如何に関しては、人それぞれの考えがあって、優劣はつかないと思います。
論破ではなく、一つの意見として申し上げます。
私が為政者側だとしたら、「死なないでもっと稼いで社会に貢献してください」と言うでしょう。
こんにちは。
経済から見た「自殺してはいけない理由」として、納得しながら読ませていただきました。今回のような視点から見た「自殺してはいけない理由」については同じ考えを持っていましたが、実際の数字に近い情報も含まれており、大変理由しやすかったです。ありがとうございました。
現在、子ども達(あるいは若者)からそのような質問があった場合、どのような答えが正解なのかを探しており、いくつかの記事(「記事」となってしまうのは、筆者様の考え方が大方だからでしょう)を読み漁っています。
その中で、私がなりの「自分の人生において自殺してはいけない理由」を考えて見ましたので、是非ご意見を聞かせていただければと思います。
結論から述べますと、「自身を守るため」ではないかと考えました。
自殺を選択する理由の主なものとして
・自分が死ねば周りに迷惑がかからないから
・死んだ方がマシだから
の2つと考えます。
前者に関しては、今回の記事の内容や、「生きている迷惑より死んだ悲しみの方がずっと大きい」が答えになるかと考えます(上の結論は次に対する答えですね。失礼しました)。
問題は後者の「死んだ方がマシだから」という理由の答え。
「自分の人生なのだから、死んで楽になったって自分勝手じゃないか」と考えた場合の自殺理由かと思います。
本当に「死んだら楽」なのか?と考えました。
宗教的な「死後の世界」があるとするならば、多くは「自殺は大罪」とされるため、「死んだ方が苦しみは続く」と考えられます。この観点で言えば、「死んだら楽」ではないと思います。
では死後の世界が無い場合。
死んだらどうなるのでしょう。
わかりません。
真っ暗でもない(重要です)、無音でもない、想像もできない、想像する部分(もちろん脳)がないから想像できるはずもない。
「死んだら楽(マシ)」と言うからには「死後」を想像して選んでいるはずです。本当に想像できているのでしょうか。
おそらくできていない、あるいはしていないと思われます。
それでも「死」を選ぶのは、なんやかんやで「死後がある」と考えてしまっているからと、私は思います(特に「真っ暗になる」が多いのではないでしょうか)。
どのように考えていたとしても、「死んだ方がマシ」がそもそも間違っていると考えました(どういった観点からしても)。
それでも「死」をマシと考えて自殺してしまうのはなぜか。そもそもなぜ自殺を選ぼうと思ったのか。
それは 生きていることが辛いからだと思います。その辛いことから、自分を守るためだと思います。
これ以上辛い思いをしたくないから、辛い現状から自分を守りたいから、死を楽と考えて自殺しているのではないかと考えました。
しかし、自分を守るために自殺をするとどうなるか。
地獄に堕ちて苦しみを受け続ける、想像も出来ないような状態に放り込まれる(ここが未完成ですね)。
自分を守るはずが、より苦しめる結果になると思います。
これが上述した「自分の人生において自殺してはいけない理由」の結論、「自分を守るため」になります。
ここからは派生ですが、では自分を守るために、自殺をせずにどうすれば良いかを考えました。
私は選択肢を増やせば良いと考えます。
・死ぬ
・生きる
ではなく、
・死ぬ
・いまのまま頑張って生きる
・環境を変えて生きる
・一時的に誰かに助けて貰って生きる
などなど(言うは易しですが)。
その中で「自分を守るため」の選択をすれば良いかと考えます。周りのサポートが必須とは思いますが。
長くなりましたが、以上が私の考える「自分の人生において自殺してはいけない理由」です。
拙い文章、考察で大変申し訳ありませんが、さらに発展できるよう、是非ご意見をいただければと思います。
長文失礼いたしました。
自殺がダメな理由にはなり得ないと感じました。残念です。自分の見ている世界だけが現実です。その後の事に興味はありません。
コメントありがとうございます。
⇒すみませんが、言ってることがよく分かりません。
横やり失礼します。
自殺者の主観がなくなるから、そもそも現実世界のことを言っても無意味である、ということを言いたかったのだと思います。
量子論や脳科学的な話をすると、現実世界を創っているのは『自分自身の意識』であるらしいので、それがなくなった瞬間に現実世界もなくなるので、私も『ありがとう』さんの意見に賛成ですね。
楽しく読ませて頂きました。管理人様による社会学的考察は、一般の方には中々浸透しにくく、冷徹と見なされてしまうことも多いかとお察しします。
個人レベルでは、自殺を考える者を心配し、思い止まるよう説得する。これはごく自然なことです。
しかし、社会レベルで見てみると、個人の自殺はその社会にとって不都合な作用をもたらすもの。よって権力は社会を維持・管理するために、自殺を抑制する政策を打ち出す。これも機能的には当然のことでしょう。
ただ権力の立場としては、自殺によって引き起こされる経済的損失を理由に、国民に対して自殺予防を訴えることは、体裁上好ましくない。だからあえて経済的理由には触れず、個人レベルで考えられているような「生命尊重」を建前にしてしまう。
この欺瞞が、私も含め、なぜ世の中全体で自殺が忌避されるのかを考えてしまった者たちにとっては、非常に気持ちが悪いものになります(笑)。
近代以降の道徳的正論の裏側から時の権力・他者の都合がちらつく時、我々はやるせない気持ちになります。
なんだよ!全部嘘かよって、感じですね。
ただ、だからと言って、個人レベルでの配慮の全てを欺瞞や、押し付けであるとして断罪することはできないと考えられます。
もちろん、管理人様がおっしゃる通り、人が人の自殺を止めるのは、自分の都合(不快な思いをしたくない等)のためであることは否定できないと思いますし、効果的な解決策を提示できるのかという問題もあります。
以上のことを踏まえた上で、人が人の自殺を止める行為は「必要悪」と言えるのではないでしょうか。
長々と駄文を失礼しました。要するに、生命尊重(といいつ本当は経済)を理由に自殺をするなとは言われたくないし、他人にも自分の都合を押し付けない。しかし、他者(社会)の勝手な都合で、親しい人間が苦しみ、自殺しようとしているのなら、必要悪と割り切って介入するのもありではというのがこの記事を読んでの私の考えであります。
以上が、管理人様の考察を踏まえた上での私の稚拙な推察・私見です。ありがとうございました。
こんにちは。
上手く私の主張をまとめていただきありがとうございます。
私も必要悪だとして相手に介入するのは、自殺を考えている人に対する手段の答えの一つだと思います。
実際にもし、私の親しい知り合いが似た状況に陥ったら、強く自殺を制止すると思います。
その主張にはこちらの欺瞞が含まれていたとしても。
うーん、ほんとうにそうかな?コストがどうとか関係ないと思うんだけど…
たとえば、あなたが子供を持った時に、子供が自殺するって言ったら、そんな理由づけを使うの?
あるいは、あなたの親や友人が死にたいって言ったら?
彼らが死んだら悲しくないの?
それとはまた次元が違うの?
ねえ、答えてよ、ご立派な善人さん
ななしさん、コメントありがとうございます。
かなりセンシティブな内容になるので、誤解が無いようにしたいですが、「死なないでほしい」という主張には、どこまで突き詰めても「こちらが困るから」という欺瞞が含まれてしまいます。
もちろん家族や知人の強い引き留めには、同情や心配が多数含まれているはずですが、こちらの主張を押し付けている点は否めません。
特に、政府広報が自殺を止めましょうなどと広告する場合は、強くそれを感じます。
質問にお答えします。
知り合いが死んだらもちろん悲しいです。当たり前です。
ただし、「死なないで」という前に、どうして死にたくなるほど悩んでいるのか尋ねると思います。
こちらの主張を押し付ける前に、相手の立場で考えることが最も欺瞞から遠いからです。
丁度似たような考えになったので共感します。
私が死ぬことにより社会への影響が少ないのなら苦しんで生きるより死んだ方が価値があるのではないか?
と自殺願望者目線からですがね。
この程度の内容ではダメだよ。ちゃんと考えないと。まだ麓を踏んだぐらいかな。
コメントありがとうございます。
稚拙な内容失礼しました。
では、山頂からの眺めがどんなものなのか、ぜひ聞かせて下さい
とてもわかりやすかったです。結局のところ、自殺がダメな理由ってこれに尽きますね。霊的な観点でものを語るのはほんと嘘くさい。主さんが“大人になるまでの税金”という、数字を使って表したのと同じように、自称霊能力者たちにも、自殺者の霊が苦しむ姿の写真などの証拠を見せてほしいものですね。