新海作品が描きたいのは結局、届かないモノへの片思い(想い)だと思う
新海監督が描く東京の町並み(君の名は。より引用)
こんにちは。
キング・ブログ・スライムです。
私が新海誠監督の作品に出会ったのは、一番新しい作品である「君の名は。」でした。
ザックリいえば一番多い新参者のファン。
「ほしのこえ」や「雲のむこう、約束の場所」「秒速5センチメートル」といった知る人ぞ知るディープな作品からずっとファンの古参と比べれば、新人が何を言っているレベルだと思いますw
さらに言えば初めて「君の名は。」を見たのは劇場公開から1年弱経った頃で、ブームが終わりかけていました。
20年近くかけて培ってきた映像美、シナリオの精巧さなど、彼が表現する様々なものに圧倒されたのが正直な感想。
そこからすぐに新海作品が好きになりました。
これまでアニメや映画の聖地巡礼など行ったことがありませんでしたが、初めて聖地として知られる諏訪湖にいったりもしました。
当然、「君の名は。」だけでは飽き足らず、前作や前前前作である言の葉の庭や秒速5センチメートルも観ました。
小説も出していると知って近くの本屋に急行して、すぐに本も買いました。
新海誠の作品を読んだり見てみたりして、彼が何を表現したいのか色々と考えてみました。
「新海作品は心をえぐられるような感覚になる」「エモい」などとよく言われます。
結局彼が表現したいのは、届かないモノへの片思い(想い)とその苦悩だと思います。
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君の名は。
映画「君の名は。」より引用
例えば、一番新しい作品である「君の名は。」で瀧くんと三葉が切実に苦悩していたのは、まさにこの届かないモノへの片思いでした。
以下は小説「君の名は。 (角川文庫)」から引用した、瀧くんの心情の一節です。
かつてとても強い気持ちで、俺は何かを決心したことがある。
朝、目を覚まし、右手をじっと見る。人差し指に、小さな水滴がのっている。ついさっきまでの夢も、目じりを一瞬湿らせた涙も、気づけばもう乾いている。
小説君の名は。より
映画であれば、瀧くんや三葉がベッドから起き、訳も分からない自身の涙に気付くシーンです。
冒頭と最後のシーンで描写されていたはず。
かつて大切だったはずの人を目の前で失い、時が経つにつれて大切だと思っていた人がいた記憶すら失っていきます。
しかもその正体が一体何なのか分からず、苦悩していました。
映画のキャッチフレーズは「まだ会ったことのない君を、探している」
映画では時間の都合上省かれていますが、瀧や三葉はあの離別から5、6年もこの感覚にさいなまれながら生活し続けていました。
このどうすることもできない切実な悲痛が視聴者への強い共感を生むのでしょう。
言の葉の庭
雨が降りしきる新宿駅。映画「言の葉の庭」より引用
言の葉の庭では、高校生の秋月孝雄がこの届かないモノに対する切実な思いを抱いていたと思います。
雨が降るときだけ新宿の公園(新宿御苑)で出会う女性との不思議な関係。
そんな経験を通じて、17歳も年上のお姉さん(雪野先生)を好きになってしまいました。
高校生である彼が、年齢差のある女性とさらに深い関係になるのは難しく、彼自身も状況を十重に把握していたよう。
以下は雪野(女性教師)と秋月(男性生徒)のそれぞれのフレーズもしくは心情表現です。小説「言の葉の庭 (角川文庫)」より引用しました。
「……私ね」「上手く歩けなくなっちゃったの。いつの間にか」(by 雪野先生)
だから俺は、あの人がたくさん歩きたくなるような靴を作るのだ。それが、あの人まで届くかもしれない、俺の辿れる唯一の道だ。(by 秋月孝雄)
小説「言の葉の庭」より
彼の夢は靴職人という世間的に見ると珍しい職業で、物語の設定上必要だったのかもしれません。
まあともかく、何も持っていない高校生の彼にとって、届かない存在(雪野先生)に少しでも近づけるかもしれない手段が、靴職人になって雪野がもう一度歩けるようになる靴を作ることでした。
彼は結局、自分が作りたい靴を作るために靴職人の本場イタリアまで留学することになります。
彼を留学に行かせるまでに駆り立てた原動力は、彼女を想うこの切実さだったのでしょう。
例が卑近ですが、好きな女の子が見に来るクラブの試合では、普段以上にカッコよくプレーして目立とうとする、あの感覚と似ていますね(笑)
確かにプロセスとしては遠回りも良いところ。でも、ごく直感的に理解できる気がします。
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秒速5センチメートル
美しい桜が印象的な2人の小学生時代。映画「秒速5センチメートル」より引用
初めて秒速5センチメートルを観たとき、正直この映画は何を伝えたいのかさっぱり分かりませんでした。
でも2度目に観たときにその良さが少しわかった気がします。
そして暇なときに観るたびに、少しずつ好きになっていった作品。
今でもズバッと何がいいのかうまく言葉で表せられないけど、新海作品の中で一番のお気に入り作品です。
遠野貴樹にとって小学校の高学年で出会った篠原明里は、運命の人と呼んでもいいほど運命の人でした(その逆はどうかは分からない)。
高校生になっても、大学生になっても、社会人になっても結局、この明里への思い入れが強く、付き合ってきた女の人達とはほとんど距離を縮めることができませんでした。
大人になった遠野貴樹の生活は、お世辞にも華やかとは言えませんでした。
彼が入ったのはソフトフェアの開発を行う会社。
終電まで働いて、家に戻ったら泥のように寝る。そんな生活を繰り返していました。
でも仕事にやる気がないかというと全くそうではなく、逆に本当に熱心に仕事に打ち込んでいきます。
その背景にも、届かないモノに対する切実な思いがあるのでした。
以下は小説「秒速5センチメートル (角川文庫)」より引用します。
宇宙を記述するために生まれた相対性理論があり、ナノスケールの振る舞いを記述する量子論があり、そしてそれらは来るべき大統一論なり超ひも理論なりでいつか統合されるのかもしれないと考えた時、コンピュータを扱うということ自体が何か世界の秘密に触れる行為であるかのように思えた。
そしてその世界の秘密には、もうずっと昔に過ぎ去ってしまった夢や想い、好きだった場所や放課後に聞いた音楽、特別だった女の子とのかなえることができなかった約束、そういったものに繋がる通路が隠されているようなーーはっきりとした理由はないのだけれど、そんな気がした。
だから何か大切なものを取り戻そうとするかのようなある種の切実さを持って、彼は仕事に深くのめり込んでいった。
小説「秒速5センチメートル」より
彼が仕事に打ち込んだのは結局、はっきり理由は説明できないけれど、叶わなかった明里との夢に繋がっているかもしれないと思ったからでした。
最後には思い出の踏切で(明里と思われる)女性とすれ違い、その奇跡を糧にして、新しい世界に進もうと決意するのです。
届かないモノへの片思い(想い)
結局、届かないモノへの片思い(想い)が伝えたい主要なメッセージの一つであり、新海作品ではそれが年齢や場所、時代を変えていろいろな形で描かれてきたのだと思っています。
一般に男女のすれ違いが新海作品のテーマだと言われることがあるけれど、確かにほとんどすべての作品で男女の関係が主題にはなっているけれど、片思いというのは男女関係だけに縛られないと思います。
別に片思いをする対象は、異性だけではありません。
言の葉の庭のあとがきでは、新海監督は自身で「小説に、ずっと片思いをしている」と書いています。しかも1本の製本を通じて、小説に「全然近づけなかったな」と「がっくり」思うことすらあるそう。
人はそれぞれ何か目標があって、それは言葉にできる目標(例えば30歳までに年収1000超えるなど。安い例ではある(笑))だけでなく、自分でも表現しようのない強迫観念的な夢だってあると思います。
むしろそうやって言葉に表せる夢を持っている人の方が少ないかもしれません。
人はだれだって何か届かないものに片思いをしている。
新海誠監督が作り出すものには、そういう誰もが抱える、何かに対する片思いやそれにまつわる葛藤をうまく代弁しているのだと思う。
それが彼の作品のエモさに繋がり、多くの若者の支持を集めている理由の一つだと思います。
災害で愛する家族が行方不明になって今も戻らぬ彼・彼女を待つ人、届かなかった高校生の頃の憧れの男の子に対する思い、そういった言葉では表現しようもない届かぬものに対する切実な思いが、結局のところ表現されているのかもしれません。
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記事は以上です。
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